田辺秀樹 Piano

 

 

“酒席”ピアニストに乾杯!
 田辺秀樹のデビューCD〜ウィーン、わが夢の町

 ピアノ・ソロによるウィーン節の神髄!

 

  ドイツ文学者で、「モーツァルト」(新潮社)や、「モーツァルト16の扉」(小学館)の著書もある田辺秀樹(一橋大学名誉教授)は、知る人ぞ知る“酒席”ピアニスト。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけてウィーンで愛唱された歌(Wienerlied)。ウィーン文化の精華とも言うべき、カフェやホイリゲ(酒場)に流れる名旋律の数々を、本場ウィーンでも演奏経験が豊富な田辺秀樹が、自ら編曲も行なって演奏しています。

  ワインがあればさらにご機嫌! ノスタルジックで美しい旋律をもつウィーンの節の神髄を存分に味わえる、世界にも類を見ないアルバムの登場です。

 

“酒席”ピアニストに乾杯! 

人の心を包み込む、なんとも暖かい演奏だ。

目を閉じれば、ここはもうウィーンの裏町のカフェ。

ピアノを弾いているのが、数年前まで一橋大学でドイツ文化を

講義し、ウィーンをこよなく愛する田辺秀樹教授だと知れば驚くに違いない。        大原哲夫 ライナーノーツより

 

“酒席”ピアニストに乾杯!

ウィーン、わが夢の町  Wien, du Stadt meiner Träume 

01ヘルナルスの小さなカフェで   02ウィーンへの挨拶  03ワインはいいものだ  

04河下のローバウでは  05服なんぞ売り払ってくれ  06ランナーの調べ

07俺は生粋のウィーン子  08 音楽とワインがなくなったら  09 懐かしの1830年頃

10 ミヒャエル広場の思い出  11 神様、天国はいりません   12神様がお望みでなければ

13 ゲーテやシラーじゃないけれど 14 ウィーンの辻馬車の歌 15 グリンツィングにまた行きい   16 プラーター公園の春  17 郊外のジーファリングでは  18私のママはウィーン生まれ  19ウィーン、わが夢の町  20ウィーンは夜こそ素晴らしい  21別れには「セルヴス」を   

Extra Track (encore)

22 ウィーン、わが夢(と現実!)の町                         

田辺秀樹、ピアノ 

CD : MF28501  定価:2,800(税抜き)

発売日:2016年12月10日予定  

録音:三鷹市芸術文化センター「風のホール」  20014年6月19日他

 

田辺 秀樹(たなべ・ひでき)

 

1948年東京生まれ。幼少時よりピアノを習うが、10年ほどでクラシックのピアニストへの道を断念、以後はピアノで好きな曲や歌を弾いて楽しむ。東京大学文学部でドイツ文学を専攻。1978年から80年、ドイツ留学中、オーストリアの保養地、バート・イシュルで素晴らしいサロン・ピアニストの演奏に魅了され、古き良きヨーロッパのサロン・ピアノの継承を志す。2012年まで一橋大学大学院言語社会研究科教授(ドイツ語、音楽文化論担当)。著書に『モーツァルト』(新潮文庫)、『モーツァルト、16の扉』(小学館)他。大学退官後は“酒席”ピアニストとして、ウィーンのカフェなどでの演奏も行っている。

 

■ サロン・ピアニストをめざして

                         田 辺 秀 樹

 

 大学教師としての表の顔のほかに、私が持っているもうひとつの裏の顔は、怪しいサロン・ピアニストとしての顔である。本当は、こちらの方を表にしたいところなのだが、今のところその望みはかなわない。ピアノによる収入は、まだ微々たるものだからだ。

 幼稚園でピアノをいたずらしてばかりいるというので、親がピアノ教室に通わせてくれた。中学の終りくらいまではレッスンを続けて、ベートーヴェンのソナタくらいは弾くようなった。けれども、ピアノの道に進むほどではない。高校進学とともに教室通いもやめてしまった。とはいえ、ピアノを弾くのは大好きだったから、その後は好きな曲を好きなように弾くようになった。当時流行のビートルズの曲や映画音楽、ポップス、フォーク、日本の叙情歌、各国の民謡といった雑多な曲を、譜面によらない「聴き覚え」と「探り弾き」で弾く。ジプシー・ヴァイオリンならぬジプシー・ピアノといったところだ。

 独文科の学生時代には、新宿の酒場で雰囲気作りのピアノを弾かせてもらったりして、これが結構なアルバイトになった。ギャラがもらえるのも嬉しかったが、なにより、自分の演奏を聴いてもらえるということが大きな喜びだった。客のリクエストに応えて礼を言われたりすれば、最高の気分だった。

 そんな私にとって、忘れられないのは、もう二十年以上も前のバート・イシュルでの体験である。一九七九年の夏、当時DAADの留学生としてボンに住んでいた私は、ポンコツのフォルクスワーゲンを運転してザルツブルクに出かけた。むろん音楽祭が目当てだったのだが、当地のホテルはどこも一杯だし、オペラのチケットは、たとえあっても恐ろしく高い。そこで、ちょうど同じ時期にザルツカンマーグートの温泉保養地バート・イシュルで開催されていた「オペレッタ・フェスティヴァル」に行くことにした。町はずれの安い民宿に五泊分の部屋を確保し、昼間はのんびり風光明媚な高原に点在する湖などを訪ねて回り、晩は町の温泉会館で上演されるレハールやレオ・ファルのオペレッタを楽しんだ。皇帝フランツ・ヨーゼフの夏の滞在地だったというだけあって、町には由緒ありげな立派なホテルがある。二日目の午後、私は、コーヒーくらい飲んでみようと思って、身分不相応な高級ホテルのレストランに入った。

 そこに、すばらしいピアノを弾く老人がいたのである。七十歳くらいと思われるそのピアノ弾きは、黒服に蝶ネクタイという定番の服装で、レストランの奥まった一角に置かれたピアノを弾いていた。周囲は、客たちの談話の声や、食器が触れ合う音などで、ざわめいている。ちゃんと聴いている客など、いそうもない。しかし、そんな中で彼が弾いているオペレッタの曲やヨーロッパの懐メロの数々は、まさに天下一品だった。あくまでも柔らかな音と軽妙なタッチ、絶妙な和音、洗練された編曲、曲から曲への滑らかな移行・・・・。まさに、究極の「耳に快いピアノ」なのである。私は心底魅了されて、聴き惚れた。このピアノが聴きたくて、次の日もまた次の日も、同じ時間にコーヒーを飲みに行った。貧相な身なりの東洋人ということだけでも目立つのに、連日そばの席でじっと傾聴しているのだから、老ピアニストは私の存在を意識せずにはいられなくなったに違いない。三日目の時、彼は私の方を見てニコッと笑い、ヤパーナーと見たのだろう、『サクラ、サクラ』と『スキヤキ・ソング(上を向いて歩こう)』を、これまたじつに洒落たアレンジで弾いてくれた。

 演奏が一段落したところで、私はお礼にコーヒーを差し上げたいのだがと、ささやかな招待を申し出て、自己紹介をした。私がいかに彼の弾くピアノに魅了されたかを語ると、彼は嬉しそうに笑い、私の問うままに、いろいろと興味深い話をしてくれた。プラハの音楽院でピアノを学んだこと、しかしE(rnst)-Musikには進まず、U(nterhaltungs)-Musikの道を選んだこと、カフェやレストラン、ダンス・ホールや劇場、果ては娼館のサロンにいたるまで、さまざまな場所でピアノを弾いたこと、戦前の楽団仲間のうちの何人かは強制収容所で死んだらしいこと、ナチの将校達の前で弾いたこともあること、十年前に西に逃げてきたこと・・・・。なんだかヨーゼフ・ロートの小説のような身の上話である。私がひどく感激して、「あなたは私がこれまでに聴いた最高のピアニストだ」と断言すると、老人は「私はしょせんサロンのピアノ弾きさ」と、笑いながら首を横に振った。「だれもちゃんと聴いちゃいない。邪魔だと思う客だっている。でも、時どきあなたのようにじっと聴いてくれる人がいるのがわかると、すごくうれしいよ。」

 彼が言うには、ピアノの生演奏を聴かせる場はどんどん少なくなっているし、若者はこの種の音楽には興味がないから、サロン・ピアノに未来はない、とのことだった。私は、自分も自己流でヘタなピアノを弾く人間であることを打ち明け、感激した勢いで、「あなたが聴かせてくれた古き良きヨーロッパのサロン・ピアノの響きを耳に留めて、少しでもあなたの演奏に近づくことができるように努力するつもりだ」、というようなことを言って、別れの握手をしたのだった。

 その後二十年が過ぎて、むろん私のピアノは、あの老ピアノ弾きの演奏には遠く及ばない。しかし、サロンの楽師の心意気だけは、彼からしっかり受け継いだつもりでいる。これまではほとんど、大学専属の「酒席ピアニスト」だったが、最近は嬉しいことに、学外からも時どきお呼びがかかるようになった。いつかは、あのバート・イシュルのピアニストのようにサロン・ピアノの神髄をきわめ、客席のざわめきを静寂に変えるような演奏ができるようになるのが、私の夢なのだ。  

 (2000年/ドイツ語教科書会社PR誌「ブルンネン」への寄稿)